Ωバース火黒(抄)5-2

前の話 最初の話

 ぽつぽつと集まり始めたストバス組と入れ替わりでフェンスを抜ける。遠い視界の隅で、青峰が足元のスポーツバッグを拾って肩にかけた。その目がどこを見ているか気になったが、火神が立ち止まれば黒子にも振り向く口実を与えてしまう。
 歩調を早めてコート脇の路地に入った火神は、連れの顔を何気なく見下ろし、どきりとした。
「おい、大丈夫か」
 一拍遅れて黒子が反応する。虚ろな仕草で顔を上げ、ふるっとまぶたを揺らした。青白い街路灯の下、瞳のふちが水面のようにきらめいて、もっと明るければ上気したほおの赤い色も見えたはずだ。
 濃く立ち上るバニラとシトラス、甘いミルクの香り。
 まじろぎもせず見つめる火神に気づいて、黒子は声をうわずらせた。
「すみません……あの、ちょっと……久しぶりだったので」
「久しぶり?」
 目的語のない単語をおうむ返しにする。すると黒子は何か言いかけて──口をつぐんだ。久しぶりに嗅いだ青峰の匂いで発情しそう、とはさすがに言えないらしい。
 だがそれが言えないのは、火神をただの安全牌とは見ていない証拠でもある。
 黒子をじっと見据えたまま、火神は言葉を選んだ。
「ていうかそんなんで帰って平気かよ。厳しいんだろ、お前んちの親」
「……どういう意味ですか」
「どういう意味ってお前、すげー反応してんじゃん。苦しそうだし。ほっといたらアレ、来ちまうんじゃねーの」
 息を飲んだ黒子のうなじには後れ毛が貼りついて、汗ばむほどの動揺が見て取れた。指先まで痺れるような胸の高鳴りを、黒子も感じているのだろうか。
「オレでよけりゃ、そうなる前になんとかしてやれっけど……どうする」
 以前聞いた、発情期が来れば当分外出禁止、という家の縛りをほのめかし、火神は選択を委ねた。
 追い詰められた黒子が目を泳がせる。視線が定まる前に手を差し出して、促すと、他に頼るものをなくした手がおずおずと上に乗った。すかさず握り締めて歩きだす。
「え、ど、どこに」
「オレんち」
 黒子の指がびくっと跳ねた。だが立ち止まる様子はなく、もう逃がさないと告げる必要もなさそうだった。


 黙りこくったままの黒子を先に玄関へ通す。部屋の明かりが灯るなり、靴を脱ぐ間も与えずに抱きすくめた。仔犬じみてぐったりと熱い体の、湿った首すじに顔をうずめ、絞り出すように尋ねる。
「どこまでしていい」
「……ッあ、噛まない、で」
 わかったと応える代わりに、火神は眼下の白いうなじを手のひらで覆った。指の隙間の肌を舐め、けぶる生え際から耳たぶまでを舌でたどる。汗の薄い塩気と、唇をくすぐる後れ毛、甘いバニラの香り。脳がぐずぐずに融けてしまいそうだった。
 それに心臓が痛い。掻きむしりたくなる胸の疼きに苛まれているのが自分だけとは思えなくて、抱きしめた腰元のシャツをたくし上げる。ひっ、と嗚咽を漏らしてへこんだ腹を撫で上げ、胸の真ん中に手を当てた。
 どく、どく、と早鐘を打つ鼓動を感じたとたん、疼きはもっとひどくなった。
「汗すげーな。暑い?」
「ン……ッ……っ」
 鳥肌の浮いた胸を撫でさすり、ぷつんと尖った乳首を探り当てる。めくれたシャツからのぞく脇腹がびくびくと跳ねるのを眺めながら、執拗に弄んだ。
 黒子は息を殺して刺激に耐えている。始めはそれでも良かったが、興奮が増すにつれて物足りなくなってきた。
 もっと自分から求めて欲しい。感じてる声が聞きたい。
 震えて背すじを反らした黒子のシャツに腕を深く差し入れ、鎖骨のくぼみからのど、尖ったあご先のラインに中指を這わせる。襟元から出した手で唇をなぞり、丸いほおを包んだ。
 巻き込んだ唇を噛み締めて、黒子は頑なに喘ぐまいとしている。それが歯がゆい火神は上体を倒して重ね、甘い香りの耳元に囁いた。
「黒子の声、好きだぜ。だから……」
 ここを開けてくれ、と唇の合わせに親指を立てる。まつ毛を伏せた黒子は観念したように奥歯を緩め、侵入を許した。
「はぁ……あ、ふ、うぁ」
 ぬるりと暖かい粘膜に指を二本入れて曲げる。舌を挟んで引き出し、待ち伏せていた唇で捕まえた。ちゅる、と音を立てて吸い取った黒子の舌は剥いたアロエみたいに滑らかで水々しい。だったら根っこから抜いて食っちまいたい、と腹に突き上げた荒い衝動が伝わったか、黒子が体を固くした。
「ッ……悪い」
 散々絡め取った挙句の謝罪は誠意に欠けて、黒子の潤んだ上目遣いに後ろめたさが募る。
 こんな風にするつもりじゃなかった。
 こんな、飢えた獣みたくがっつくんじゃなく──お前が誰より大切で、好きだって気持ちをありのままに伝える、そんなキスがしたかったのに。
「嫌なことしたら止めてくれ。加減がわかんねえ」
「そうじゃない」
 食い気味で否定した黒子が、気まずそうに目を逸らす。
「ちょっとだけびっくりして……こういうのは、初めてで」
 火神はつかの間黙り込み、その迂闊な告白を聞き流した。黒子にとって何が初めてで何がそうじゃないのか、今は想像したくない。
「……くろこ」
 吐息で名を呼びながら口の端をついばむ。二度目のキスをおとなしく受け入れる唇へ、今度はじわりと分け入った。


(つづく)

Ωバース火黒(抄)5-1

前の話 最初の話 次の話

「テツ。久しぶりだな」
 低く乾いた声が黒子を呼ぶ。砕けた響きの愛称と、突き放した口調のアンバランスが、二人のもつれた過去を嫌でも匂い立たせた。
 呆然と立ち尽くす黒子の足元を『青峰』の影が黒く塗り潰している。
 火神は弾かれたようにベンチから立ち上がった。ついさっき腕に抱いた肩を取り戻そうと伸ばした指先が空を切る。
 瞬きの差で動き出していた青峰が、先に黒子の腕を掴んだ。落ちたスポーツバッグに気を取られているのを引き寄せ、腰に手を回す。
 そして風が荒ぶような、掠れた笑い声をたてた。
「……なんだお前、オメガだったんじゃん」
「っ、やめ」
 黒子は声を詰まらせた。火神は「やめろ」と言葉を継いだ。頭ひとつ低いつむじ越しに「嫌がってんだろうが」と畳み掛けると、青峰の鋭角な眉がぴくりと跳ねる。
 それまで頑なに火神を避けていた視線が、ようやくこっちを見た。だが一瞥してすぐに逸れ、白けた調子で言う。
「そのアルファ、なに。こいつとヤッてんの」
 オレとしてたみてーなこと、と意味深な台詞が続き、黒子はぎゅっと身を縮めた。怒っているのか、恥ずかしいのか、耳の裏を真っ赤に染めて「違います」と答える。
「だろーな、だってお前匂いが変わってねーもん。つか前よりスゲーな……これ、オメガのフェロモンか」
 そう言うと、青峰は汗ばんだ首すじに顔を寄せた。鼻先で這い上るようにして肌を辿り、髪に顔を埋める。
 慣れた仕草で。
 当然のように。
 火神がずっとそうしたくて、できなかった、友情のオブラートに包んでやっと送ったキスを、いとも簡単に。
 振り払ってくれ、と祈った。ほんの一言、身振りだけでもいい。拒む意思を見せてくれたら、オレはそいつを殴ってお前を奪い返すことができる。
 焦げつく感情に耐えながら凝視する先で、黒子が小さく身じろぐ。着崩した他校の制服の腹に手を当て、すがりつくでもなく震えている。だが青峰は抱き寄せる腕を強め、ポケットから出した左手で黒子の肘に触れた。
 浅黒い指が、むき出しの白い腕を滑り降りていく。感触を確かめるようにゆっくりと下り、手首を掴んだ。それが日没の太陽を背負う青峰の、暗い影の中に黒子を縛りつける枷に見えて、火神は思わず一歩踏み出した。
「返せよ」
 無意識の台詞だったが、よほど癪に障ったらしい。青峰はいきなり無関心の仮面を剥ぎ取ると、真正面から火神を睨みつけた。
「うぜえ野郎だな。マジになってんじゃねーよ部外者が」
 ドスの効いた口調から一転して、せせら笑うように言う。
「そんなに欲しけりゃツバでもつけとけ、のろま」
 オレはそうしたぜとでも言いたげに、青峰は黒子のうなじへ視線を落とした。
 瞬間、火神の全身がぞわりと騒めいた。爆発的な怒りに任せて敵の胸ぐらを掴む。二人の間に腕を割り入れ、ひっぺがす勢いで黒子の肩を引いた。そして自分と同じ高さにある、青い炎の燻る目を睨み返す。
 ありったけの憎しみを込め「てめえ」と唸ったあと、火神は絶句した。体中の血が逆流して、目がチカチカと眩み、頭だけ妙に冴えているこの感覚を、的確に表す言葉が見つからない。それは火神が初めて感じる、本気の殺意かもしれなかった。
「……にして、ください」
 一触即発の空気を変えたのは、黒子の苦しそうな声だ。
 激昂したアルファ達の気迫に当てられたのだろう。膝から崩れ落ちそうにふらつくのを、肩と腰を抱く二本の腕が支えた。
 だが、黒子はどちらにも寄りかからなかった。固く拳を握り、コートサイドの芝を踏みしめて立っている。意表を突かれた様子の青峰を見上げるなり、緩んだネクタイのノットを掴んでぶつかりそうなくらい顔を寄せた。
「いい加減にしてください。ボクは物じゃない。勝手に取り合われるのは不快です」
 語尾を震わせながらもぴしゃりと言い切ると、少しだけ後ろを振り向く。
「それに彼は部外者なんかじゃありません。火神君はボクの、大切な──」
 一瞬の息継ぎのあと、黒子は「友人です」と続けた。
 のどにこみ上げる苦いものを、火神は無理やり飲み下した。胸に渦巻くどの言葉も、吐き出せば黒子を失望させてしまいそうで怖い。
 息詰まる沈黙を破って、黒子がぽつりと問いかける。
「ボクは青峰君の何ですか」
 また黙り込んで返事を待つが、青峰は何も答えない。
 黒子が悄然とうつむくのを見て、火神は我を取り戻した。青峰が決して敵わない相手じゃないと気づいたからだ。
 同じことをオレに聞けよ、と思う。
──そいつが怖気づいて言わない答えを、オレならはっきり伝えてやれる。そいつが手を離してもまだ動けずにいるお前の未練がましさはムカつくけど、それくらい一途ってことだろ。
 コートの四方からパッと光が差した。いつの間にか完全に日が落ちて、投光器のセンサーが働いたのだ。
 人が来そうだと思ったとたん、社会人ぽい私服の数名がフェンスの切れ目から入ってくる。中の一人に訝しげな視線を寄越され、黒子もようやく諦めがついたらしい。
「……では、また。次はインハイ予選で会いましょう」
 ボク達けっこう強いですよ、とうそぶいてみせる黒子が、本当はちっとも平気じゃないと分かっていたが、火神もあえて触れない。
 それより一刻も早くこの場を離れたかった。青峰がまだ火神を見くびっているうちに、黒子との距離を詰める必要がある。

 

(つづく)

the midnight gas station carols

テツの元カレが地雷な青峰君のクリスマスイブ小咄

また、つまらない一言で怒らせてしまった。

フロントガラスをじっと見据えたまま一言も発さなくなった、彼の横顔を盗み見る。
国道を流れるネオンサインが運転席をシルエットにして、日に焼けた顔の表情をますます見えなくした。
いっそあやまってしまおうか。でも。
迷っている間に車はウインカーを瞬かせ、道路脇のちいさなガソリンスタンドに滑り込んだ。
「いらっしゃいませえッ」
油染みが目立つツナギの店員が、姿勢を低くしてパワーウィンドウのなかを覗いてくる。青峰君は四駆の重いエンジン音を威嚇するように響かせながら「ヘッドライト、壊れてんだけど」と言って、ちらりとボクを見た。
──元カレは、このくらいてめぇで直せたんだろ?
そう言いたいみたいだ。

ボクは黙ってくちびるを噛んだ。
いたたまれなくなって助手席を降りると、つめたい真冬の風が、荒いニットの編み目から暖房でゆるんだ肌をつき刺してくる。
逃がした視線の先では、ガソリンスタンドの店員がふたり、なにごとかささやき合っていた。
くすんだ金髪の、根元が黒く伸びているほうが一瞬こっちを振り向いた。なんだか嫌そうな顔をしていた。
またか、とボクはうつむく。
青峰君は自分で思ってる以上に、感情を隠すのが下手だ。
たまに他愛もない嘘をたくらんでも、ふいっと目をそらすクセがあってすぐにバレる。そんな青峰君をかわいいひとだと思うけれど、そのぶん、機嫌を損ねたときはやっかいだった。

青峰君は、他人に嫌われるのを怖がらない。
怒った青峰君が、あたりかまわず不機嫌を撒き散らすたびに、ボクは、違う、誤解しないで、彼は悪いひとじゃないんですって言い訳したくなって、でもそんな保護者気取りなことをしたら、青峰君はたぶん、もっと怒る。

だんだん冷えてきた肩をぎゅっと縮めて立っていると、さっきの金髪じゃない、ツナギ姿の店員が工具箱を鳴らして駆け寄ってきた。後ろでバタンと車のドアを閉める音がする。
青峰君は買っておいた部品とスマートキーを店員に渡すと、そのままこっちに近寄ってはこなかった。なにかに気を取られたような遠い目をして、ヘッドライトの取り外しにかかった店員の背中をながめている。

その横顔を見たボクのみぞおちに、くすぶる熱のかたまりが生まれた。
最初は切れかけのランプのようだったそれは、じわじわと、鳥肌が立つほどに燃えあがり、にぎりしめた手のひらにはやがて、ぐっしょりとたくさんの汗がにじみだした。
夜の闇に濡れて輝く車のボディーを、へこますくらい蹴ってやりたい。
ゆっくりと、つま先にちからをこめて、店員の背後に歩み寄る。
けど結局はバンパーを蹴ったりはせず、中腰になって、ふるえるひざに手をついた。
そこはちょうど、店員の背中を見る青峰君の、視線をさえぎる場所だった。

店員のゆびは汚れていた。黒い機械油が詰まった爪は、使いこまれたエンジンのシャフトに似ている。
てきぱきと、まるで実直な機械のように動く手を、ボクは奥歯を食いしばり、前のめりながら見つめた。
ひらめくゆびの残像が、ほそめたまぶたの裏で、白い光の点になってはじける。
青峰君はいま、どこを見ているだろう。

壊れたライトをようやく外し終えた店員が、工具箱のふたに乗せてあった新しいバルブを後ろ手で探りかけ、あわてて腕をひっこめた。
腰をねじって振り向くと、ツナギのふとももで何度もゆびをぬぐってから、照明部分をぼろきれでつつみ、右手に持ち替える。

ヘッドライトに使うランプは、点灯すると、とても熱くなる。
だから、手の油分がつくと割れやすくなってしまう。
いつだったか、そんなことを聞いた。カー用品店の駐車場で思い出して、青峰君に話した。
笑っていた青峰君の顔は、みるみるこわばった。

青峰君はボクの遠慮とか、飲み込んでしまった言葉には気づかないくせに、かすかな過去のにおいには、過敏に反応する。

ひときわ冷たい風が、凍えるコンクリートの地面を走りぬけた。
なぜか切なく、胸に詰まるガソリンの香り。そっと白いため息をつく。
店員が振り返った。思わぬ近さにぎょっとされて、ボクはつい頭を下げた。意味もなく笑いかける。すると店員の耳のあたりが赤くなり、怒った顔で目を逸らされた。
むっとした。なにもにらみつけなくたっていいじゃないか。
えらそうな態度で命令したのはボクじゃなくて、青峰君なのに。
踏んだり蹴ったりな気分で、黙々と作業をつづける店員の首もとから目を逸らす。

「テツ!」
急に大声で呼ばれた。
煌々と明るい待合室の入り口の横、自動販売機の前。いつの間にかそこにいた青峰君が、ポケットに手をつっ込んであごをしゃくった。来いよ、って意味だ。
ボクはなにげないそぶりで、けど内心ではコチコチに緊張して青峰君に近づいた。
「なんか飲めよ。あったかいの」
くっきりと眉間に刻まれた縦じわは、冷たい北風と、不機嫌の、どちらのせいだろう。でも声のトゲはすこし丸くなって、青峰君なりの反省が透けて見える。
ボクはやんわりとじゃれてみた。
「プレゼントには早くないですか? まだイブなのに」
スニーカーのかかとを浮かせ、うわ目づかいに顔を覗き込む。
青峰君はまじまじとボクを見下ろして、ニヤリと相好をくずした。カフェオレの缶をふたつ、片手でつかんでボクのほっぺたに押しつける。
自販機が吐き出したばかりのスチール缶は、冷え切った肌には痛いくらいの熱さで。
ボクは息を飲んで飛びのいた。青峰君は肩を揺らして笑い、こう言った。
「メリークリスマス。まだイブだけど」
また吹き抜けた風に足踏みをしながら、ついでのように付け加える。
「今年もよろしくな、テツ」
「それ、新年のあいさつです」
どうやら、ご機嫌は直ったみたいだ。
気がゆるんで回りの良くなった舌で言いかえしてみると、青峰君は「来年のクリスマスまでって意味だろ」とくちを曲げた。

穏やかな沈黙が降りると、暖かそうなガラス扉のむこうから、有線放送のクリスマスソングが聴こえてきた。
ここ一ヶ月、もしかしたらそれ以上、行く先々で耳にする浮かれた聖誕祭のうたは、今夜がピークとばかりに賑やかな鈴の音を響かせている。
Laughing all the way──悲しいことや苦しいことは全部忘れて、今日という日を大切な人と笑って過ごしなさいって、言ってるみたいな。
もしかしたら青峰君もジングルベルを聴いて気を取り直したのかも、なんて考えると、ちょっと可笑しい。

プルトップを立てる。くちびるを当てて、キスしたい気分をまぎらわせる。ほろ苦くて甘いカフェオレが、じんじんのどをすべり落ちていく。
飲み口から立ちのぼる淡い湯気のむこうから、ふと、視線を感じた。
「点灯の確認、いいすか」
運転席に半分からだを乗り入れた店員が、言うと同時にエンジンのボタンを押した。
モーターが咳きこむ。二回、三回。
「バッテリーですか?」
「ちげーだろ。ほら」
せき止めた水があふれ出すように、マフラーが吼えた。真新しいヘッドライトの光が、アイドリング音とともに国道の夜を裂く。
青峰君はお尻のポケットから財布を抜いてたずねた。
「どーも。いくら?」
「バルブ交換は部品代だけなんで」
持ち込みは無料っす。目も合わせずに断るなり、店員はそそくさと工具類を片づけて、待合室の横の駐輪スペースに引っこんだ。
「んだよ。カンジ悪ぃな」
ちょうど交代の時間だったのか、店員はもう原付バイクにまたがっている。そんなに遠くにいるわけでもないのに、遠慮しない音量で悪態をつく青峰君に眉をひそめた。
「無料でやっていただいて、その言い方はないでしょう」
おもわずたしなめてから(また余計なことを言ったかな)と顔色をうかがうけれど、青峰君は気にも止めていない様子だ。カフェオレの缶を耳にあてて、のどかに暖を取っている。
ひとまず安堵したボクは、青峰君の四駆とくらべるとずいぶん軽い原付のエンジン音をもう一度振り返った。
あのひと、薄着だな。
こんな寒い日に、ぺらぺらのジャンパーとツナギだけでバイクだなんて。よく見れば、半ヘルメットのひもを締めるゆびは古ぼけた軍手だ。
「あたたかいコーヒーでもあげればよかった」
なんとなく、そうつぶやいていた。青峰君が顔をしかめた。
「やけにかばうじゃん」
つきとばすような言いかただ。地雷の気配。今度はなんだ、と身構えながら、表情を動かさないよう意識する。
「さっきもずっとアイツ見てたよな、テツ。車いじってるヤツ見んの、そんな好き?」
「違います。ただ動くものを見ながら、考えごとをしてただけです」
踏み抜いて起爆しないように、慎重に言葉を探した。
「さっきは、その、キミのこと考えてました。はやく仲直りして、楽しいことしたいなって。キミと過ごすクリスマスは、ボクにとって特別な日ですから」
正直が一番だと思って、ボクが心の底で本当に望んでたことを伝える。
そしてつい数分間に押さえつけた衝動も。

キスしたいって気持ちを込めて、見つめて、あごをあげた。
青峰君はマジかよってちょっと焦った顔をして──けど邪険にはせず、ガソリンスタンドの高い天井のライトを遮って、細く伏せられた目が降りてきて。

ほんの数秒重なったくちびるが離れたとたん、冬の空気がうすく開いた粘膜を冷やす。
足りない、と思ったのはボクだけじゃなかったみたいだ。青峰君はまだ間近にある眉間にしわを寄せて言った。
「楽しいことって、なに」
そこまで考えてなかった、とは言えない。とっさに思い浮かんだことを口走る。
「えっと、シュート練習とか?」
「お前……いつの話してんだよ」
もっと他にあんだろーが、とあきれた声のわりに、まんざらでもなさそうに肩をすくめる。カフェオレを飲み終えたボクの空き缶を奪って、ゴミ箱に投げた。

原付の彼はとっくにいなくなっていた。洗車機の横のスペースでひとり騒がしくアイドリング音をたてている四駆に向かって、ボクは青峰君のダウンジャケットのそでを引いた。
「じゃあ、青峰君はなにかプランがあるんですか」
まだ暖房が残っている車内で、ほっと息をつきつつたずねる。
なにはともあれ、はじまったばかりのクリスマスイブをどう過ごすかが重要だ。
青峰君はとたんに素敵な隠しごとをする恋人の顔になって、まあ黙ってついてこいよ、とくちびるの端っこを引き上げた。

落日の華

執事赤司×御曹司黒子パラレル

 水辺に生い茂るスイカズラが、ふたつに裂けた金銀の花弁を鈴なりにして新しい季節の来訪を告げる。
 グミの荒い木幹にからみつくツルバラは一昨年、はじめて黄緑の蕾をつけた。原種のカニィナによく似た若葉。一枝手折って鼻先に近づければ、濃厚にただようリンゴめいた香りで野生化したロサ・エグランテリアとわかる。まもなく桃色の花を可憐に咲かせ、蜂や蝶の群れを呼ぶのだろう。
 あたりを乳白色に覆っていた霧は、東の山端からのぞく朝日に追われて今やヨモギの柔毛に名残の露を光らせるばかりである。
 赤司は重く水を含んだメリヤスの手袋を脱ぎ、上着の胸ポケットに押し込んだ。かわりに取り出したハンカチイフで燕尾の裾やズボンについた水滴を払う。糊がきいた三つ揃いはよく朝露をはじいた。しかし──サルスベリの滑らかな樹皮に手をつき、足裏を返す。
 泥水に浸かった革の靴だけは、流石に磨くか取り換えるかせねばなるまい。
 そもそも野放図な春の氾濫するこの一角へ、正装のまま立ち入るべきではなかったのだ。己の短慮に、気みじかなおれらしいと苦く笑みこぼす。ため息にならなかったのは、裏腹にある矜持のためか。
 主と呼ぶ者のもと、手うたれれば馳せ参じ、言いつかる用をただ愚直にこなす日々も幾年月か。芯から機械仕掛けの下人に成り果てたかと思えば、こうして生来の気質がひょっこり顔をだす。とはいえ、お仕着せの靴を汚してほくそ笑む程度の矜持だから、おれの身の丈もたかが知れるというものだ。
 今度こそ自嘲のかたちに歪むほほをザアと雫混じりの風が撫でていく。ハチドリの羽音を聞いた気がして、赤司は小川の縁に垂れるヤマフジの房へ目を向けた。
 白々と萌えあがる花煙の影に三寸ほどの鳥と見えたのは、はたしてスズメガの成虫である。蜜の香りに誘われ山を下ったか、愛らしい翅を震わせて順ぐりに密集した花蕊へ細長い口で吸いつく。いかにも牧歌的な眼に愉しい風景だ。
 しかしそうのん気に構えてもいられない。なにしろ、かの芋虫は名うての大食漢である。庭園のオールド・ローズを枯らしてあの好ましい、実直が取り柄の庭師を頸にしたくはないのだった。
 先日取りつけたばかりの真新しい鉄柵をくぐり、赤司は炊屋の戸を叩いた。
「ねえきみ、ニコチン液はまだあったかな」
 朝餉の準備に忙しく立ち回る女中たちのなか、たすきがけに洋酒の樽を抱えた下女がはあいと声を張り上げる。むっちりと盛りあがった胸元に汗を光らせ、「たしか納戸にふたびんほど」快活な東国訛りで答えた。
「でもあれは恐ろしい毒だからあたしらは触っちゃだめって虹村さんが」
「あったらいいんだ。あとで庭へ撒くよう伝えておいてくれ」
「ハテ、下肥に蛆でも湧きましたか」
 割り込んだのは年増の女中頭だった。丸髷に結い上げた髪の手ぬぐいを外し袂にしまう。慇懃な物腰にすこしばかり刺を感じた。屋敷の一番の古株で、庭師の虹村に懸想しているという噂だが。
 おれはどうもこういう情にうといところがあるな。鼻の頭を掻いてみせ、愛想ついでに事の顛末を説明する。
 女はこともなげに切り捨てた。
「それはニコチンでは死にません。強い芋虫ですからね」
「では一匹ずつ捕えるしか策はないと」
 想像するだに骨な作業を驚き混じりに訊ねれば、当然の面持ちで首肯する。
「虹村にはわたしから云っておきます。それより赤司さん、先刻より若様が呼んでおいでですよ」
 後ろから挿す朝日はまだ弱い。懐中時計をとりだしてみても、寝坊の主人が起きる時刻には早かった。
「参ったな。手袋と靴が汚れている」
「替えならメードが用意しましょうに」
 そのメードと顔を合わせたくないのだ。寝具一式を取り仕切るリネン室ならなおさらである。
 なにしろ昨日の今日だ──赤司は気の重さに足取りを淀ませながら、絨毯引きの離れ廊下を進んだ。もっとも口さがない女連中のこと、貴人の寝室を預かる者だけが知り得る秘事もとうに公然の云々である。プレスしたての手袋と替えの靴を受け取った背に、男芸者が来たよまあ臆面もなくと密談にしては大きい陰口が刺さった。

「なにか怒ってますか」
 使用人の渋面が気がかりでたまらない、といった風情で眼尻を赤く艶めかせる主は、一糸まとわぬ裸身である。西洋式の寝台に横たわり、華奢な金細工の煙管で煙草をのむ。
「若様、その格好ではお風邪を召します」
 煙管を取り上げ雁口にくすぶる火種を枕元の鉢にコンと返せば、恨みがましくなじられた。
「けさも足腰立たなくしてくれたのは、きみでしょう──ああもう、からだがべとべとだ」
「では湯をもたせましょう」
 呼び鈴を鳴らして合の間の女中にことづけると、まもなく熱い湯を張った桶とロオブ、大判のタオルが数枚、朝餉の台車とともに運びこまれた。
「あの娘、きみに見蕩れてましたね」
 透かし彫りになった桐屏風のむこう、水音混じりにかけられた声に戸惑う。
「さっきの女中……ほほが赤かった」
「若様の裸を恥ずかしがったのではないですか」
「ちがいます。だってきみが礼を言ったら、赤くなって逃げた」
 気味が悪くて逃げた、の間違いだろう。赤司は内心そうつぶやいて、白い木綿のクロスを敷いた丸テーブルに朝食の皿を並べた。
 馬鈴薯とベーコンの冷製スウプ。人参と隠元を詰めたコオルド・ビイフの薄切りにコンソメのジェリ。苺に冷やした牛乳と砂糖の壺を添え、最後に温室で摘んできたモス・ローズをあしらう。
 常ながら冷え冷えとした食卓である。頑として温かい食事を拒む嫡男に、子爵夫妻もどうにかこの奇妙な嗜好をあらためさせるべく苦心惨憺しているが、冷たいものでなければ餓え死ぬまで食べないのだから匙を投げるほかない。睦言に強情を揶揄する赤司に、あのとききみが忍んでくれたゆで卵と金平糖は美味かった、と殊勝な顔つきで語ったのはいつの夜であったか。
 パイル織りのロオブを手に板間へむかうと、支那の職人にあつらえさせた籐編みの湯船から、ラタンの薫りがいっそう濃く立ちのぼる。やわらかな陽光をあび濡れ光る肩へロオブを着せかければ、練色の肌を朱に染めうつむくうなじに昨晩交わした情の名残が見え、赤司はいささかまぶしげな面持ちで眼を細めた。
「若様、お手を」
 つとめて平静に暖炉の前へとうながす。素直に長椅子へうつぶせる、白樺の若木めいてしなやかな背。うす紫に透けるラベンダアの精油をたらし、清めた手のひらで丹念に塗りこめた。
「どうあってもきみは、閨のほかでぼくを呼び捨ててくれないんですね」
 青白く憂鬱をたたえた貌がふり返る。おだやかな口ぶりだが、曖昧をゆるさぬ強さがあった。赤司はわずかに視線をそらし、慎重に答えた。
「朝になれば夢は醒めます」
「──冷血漢」
 水面色の瞳を怒りにきらめかせ、彼は濡れたロオブの紐を乱雑にとき捨てた。面くらう赤司に目もくれず、奥の間からあざやかな緋色の振袖を羽織り着てテーブルにつく。手染めの京友禅も豪奢な古代縮緬である。
 今度こそ赤司は瞠目した。襟口に染め抜かれた家紋を照査するまでもなく、高貴な出自が偲ばれる逸品だ。元はどこぞの姫の持ち物か。それでなくとも、一方ならぬ想いを託された進物には相違ない。
「いつも申しているでしょう」
 乱れがちなこころを溜息で殺し、赤司は銀のスプゥンでとろりと艶やかな馬鈴薯のスウプを一匙すくった。白く垂れるしずくを零さぬようそろそろと主の口もとへ運ぶと、濃い薔薇色の舌が赤ん坊のようにしゃぶりついてくる。
「応えられぬ秋波はそもそも受け取らぬことです。あとで裏切るのは返って残酷ですから」
 苦言を呈されたのがよほど厭だったのか。彼はむずむずと二、三度唇を蠢かしたきり、早くも食事に飽いた態で細工椅子の背にもたれかかった。そのままくたりと首をかしげ、焚き染められた沈香の甘苦く薫るたもとへと鼻をうずめる。体温で溶けた牛脂がテラテラと膜を張る唇はぴくりとも動かなかったが、どこか微笑んで見えるのは気のせいだろうか。
 眺める赤司の胸に、ふと痒みに似た衝動が走る。焦りと落胆の一緒くたになった、打ちひしがれるような心持ちだ。
 不貞腐れるとだんまりを決め込むのは常のこと。なにも憂慮はないはずだ。
 しかし、赤司は敢えて衝動に身を任せた。
「聞いているのか、テツヤ」
 がらりと口調を変えて詰問する。はっと貌をあげた主の瞳が、俄かに熱を帯びた。
 主人と執事という位置づけは、すでに赤司の肌に馴染みきっている。今や安穏と例えても過言ではない。だが、それこそが二人を隔てる取去り難い薄壁となっているのも真実だ。
 茫として感情の顕れ難い、半透明の擦りガラスで組まれた匣の中からぼんやりと世間を眺め観ているような主。その内で密かに息づく肉の部分に触れたい欲求に駆られたときだけ、赤司はその名を口にすることを己に許した。
 また彼もそう呼ばれたときだけは、我が身を囲う匣の蓋をすこしだけ赤司に開いてくれるのだった。
「聞いています──赤司君」
 今度こそ、はっきりと微笑む。
「嬉しい。あの頃に帰ったみたいです」
「僕たちは友だった」
「そう。とても愉しかった」
 懐旧の情の色濃く滲む声。赤司の中に疼くものがないと言ったら嘘になるが、軽く口の端をもたげるに留めておいた。借財で門地を失った元華族風情がどれほど願おうと、過ぎ去った刻が遡行することなど有り得ないからだ。
 それに加え、赤司は今の境遇を主ほどには憂いていない。なにせ突き詰めればただの同期生にすぎなかった昔と比べ、己の彼に及ぼす影響は増しゆく一方だ。
「その縮緬、テツヤには似合わないな」
 赤司は造作なく言い放った。ことさら言葉を取り繕う必要もない竹馬の友が、服を見立てたとしたらこんな口ぶりだろうか。それにしても無遠慮に過ぎる物言いではあったが。
「それは女の着るものだろう。可笑しいよ」
 念入りにもう一度「可笑しい」と繰り返す。主は恥じ入りきって青褪め、震える睫毛を伏せた。
「着替えます。赤司君も手伝って」
 伸ばした手の指先まで血の気が失せている。傷心を隠そうともしないその態度は、返って彼の高貴な育ちを際立たせた。まるで思いあがりを糾弾されて断頭台に登る仏蘭西貴族のようだ、と赤司は思う。
「おいで、テツヤ」
 一端立ち上がったあと、赤司は優雅な仕草で腰をかがめた。そして胸ポケットから木綿のチイフを抜き、主の赤く潤んだ目もとをやさしく拭ってやるのだった。

John 8:32

反社会的&おクスリ注意な不良パロ1on1サンド。匿名で火神君もいる。

たとえば『目』と言う単語を際限なく繰りかえしてみると、言葉から意味が剥がれ落ち、単なる音の連なりになってしまう感覚に似ている。
この小さな錠剤も、細かく砕いてしまえば、ただの白い粒子に過ぎないのに。

きっかけはほんの親切心だった。
どうせ遅刻してくるだろう青峰を待つあいだ、黒子はちょっとした知り合いに会って『いいもの』を分けてもらった。
六つ折りの薄いアルミホイルに包まれたそれは、ひとりじゃもて余すほどの量で、黒子はだれかと初体験を共有したくなった。だから、戻った先の駅改札前に突っ立っていたふたりの、雁首揃えてひどい顔を見た瞬間、こう言った。

「やります? デキセドリン」

黄瀬は意外にも反対しなかった。アンフェタミン系は嫌いだと言っていたはずの彼が率先して公衆トイレを探しに行ったりするものだから、黒子もつい調子に乗って、奨められた量の倍を歯茎に挟んでしまった。
そのあとは……まあ、お祭り騒ぎというやつ。

というか、あれは本当におかしかった。笑い死ぬかと思った。だって青峰君ときたらいつの間に拾ったのか、大きなコンクリートの塊がくっついたカーネル・サンダースをずるずる連れ回してるんだもの。それで学校につくなり、時計台の真下に置いて「校長」なんて言うし。それも真顔で。

昼休み中の生徒たちもはじめは遠巻きに派手な不良たちと、その地味なツレの悪ふざけを眺めていたのだが、そのうちさざめくように笑いがひろがって、五分も経てば三人は馬鹿騒ぎの中心だった。
カーネルの上品な白髪はセミロングのウィッグに。トレードマークの黒縁メガネを奪われ、白地に赤と黒のラインのジャージを羽織り、制服のスカートをはいて、サマンサ&シュエットのトートバッグを引っ掛けられているのと反対の手に、だれかのサンドウィッチがお供えされたところで、騒ぎを聞きつけた指導課の教諭が現れた。
連行された職員室のソファで待ち受けていたのは、引きつり顔の担任と、学年主任と、本物の校長先生で。当然、退学届はすぐに受理された。
はじめてこの学校が楽しいと思ったのに。黒子は少しだけ後悔した。
と言ってもそれは澄みきった秋空に混じる寂しさに似て、本当の意味の後悔じゃない。一時の感傷を差し引けば、やはりここは黒子のいるべき場所ではないと思えた。

これでも努力はしたのだ。
どんなに小説の続きが気になっていても授業がはじまる前にはちゃんと本を置いて、前を見て、先生の質問に手を挙げた。
教室移動に遅れないように時間割表を持ち歩いて、班分けのときには自分からリーダーになったり、わざわざペア作業のある委員に立候補したり。
それでも毎日「ボクはここにいます」と言い続けなきゃいけないのにだんだん疲れてきて、ある日、午後の授業をまるまる図書室で本を読んで過ごしてみた。
そしたら──予想通り、なんの問題も起きなかった。
一応出席してみた帰りのホームルームで、担任の「きょうは久しぶりに全員出席ね」というせりふを聞いて、黒子は思った。
ボクはここにいたくない。

自然と休みがちになった黒子に、それでも声をかけてくるクラスメイトが、ひとりだけいた。
やたらと砕けた態度で『ガッコさぼってなにしてんだ』とか『いつも本読んでんだな』とか。それが理由でなんとか通いつづけていたようなものだ。
だけど、彼はいなくなった。教師を殴って退学になったらしい。彼を焚きつけたはずの、だれの名前も出さず、ひとりだけ処分を受けて、やめていった。
だから黒子は、ひとりくらい付き合ってあげてもいいんじゃないかと思って、どうせならハイな気分でやめてやろうと思って、実行した。

「べつに友達面するわけじゃないですけど」

一通り騒いで流れついた黄瀬の馴染みの店で、黒子はことの次第をこう締めくくった。

「連絡取るつもりもないですし。どうせつまんなかったですしね、学校」

青峰は肩をすくめた。
理解したのかしていないのか、たぶん『どうでもいい』が正解だろう。黙って聞いていた黄瀬は、背の高いスツールに尻の端を引っかけて、新しい煙草に火をつけた。

「で、つぎの学校は決まったんスか」

それかオレんちでニートやる? と妙に期待した声で提案され、苦笑いを返す。鈍い頭痛にこめかみを押さえながら、答えた。

「どうしましょうね。親には全寮制のミッションスクールを薦められてるんですが」

黄瀬がえーっと顔をしかめ、青峰がオエッと舌を出す。

「なにそれ、ほぼムショじゃん!」
「やめとけよ、ホモの牧師にケツ掘られんぞ」
「酷い偏見ですね。まあ、それは断ったのでもういいんです。聖書は読み応えがあって嫌いじゃないんですけど……キミたちと会えなくなるのは寂しいですし」

いつもの仲間、いつもの冗談に、はじめてのお酒と音楽。とても安らかな気分だった。
あの場所での黒子はまるで水のグラスに落とされた一滴の油で、そもそもグラスに油なんか入れるべきじゃなかったと、いまならわかる。

「真理を知らん、而して真理は汝らに自由を得さすべし」
「は?」
「あン?」
「聖ヨハネ。聖書の一節です。いまのボクにぴったりだと思いまして」

セント・ヨハネ。黄瀬のくちびるが単語の表面をなぞる。

「黒子っち、物知り。カッコいいっス」

美貌をうっとりと蕩かして黒子を見つめる黄瀬に、青峰が気色悪げな視線をよこす。そして不機嫌に言った。

「んなクソみてーな学校やめんのはいーけどよ、意味わかんね。そいつ勝手にセンセー殴ってクビになったんだろ。それでなんで、テツが義理立てすんの」

青峰らしい狭量な言い草に、黒子は目を細めた。薬のせいで瞳孔が開いて、テーブルのキャンドルがまぶしい、というのもあるけれど。

「やっぱり怒ってましたか」
「あ? べつに怒ってねーっつの」

怒ってるじゃないですか、とは突っ込まずに、黒子は首を傾げた。
確かに意味のないことをしたと自分でも思う。今日の校長の反応も似たようなもので、曰く。

「君の友達を思う気持ちは美しいがね。だが、友情の意味を少し履き違えてるなあ」

黒子は聞き返した。

「履き違え、ですか?」
「勘違いという意味よ」

と、ずれたことをいう担任。

「校長先生がおっしゃっているのはね」

──若い皆さんは、私たち教師の言うことを、大人にとって都合のいい押しつけだ、と感じることもあるでしょう。
特に友達が悪いことをして、罰を受けたとき。皆さんはこう思うかもしれない。本当はあいつはいいやつなんだ。あんないいやつに罰を与えた先生は、悪いやつだと。
確かに、その友達は本当はいい人間なのでしょう。皆さんがそう言うのだったら間違いない。では、罰した先生はやっぱり悪者ですか?
ちょっと待って、今度はこう考えてみてください。
どうして、先生は、皆さんに嫌われるのをわかっていて、それでも悪い生徒に罰を与えたのでしょうか?
…………。
それは、皆さんを愛しているからです。
嫌われたくないからルールを破った生徒を怒らないのと、嫌われたとしても悪事を叱るのと、どちらが勇気のいることか皆さんにはもうわかりますね?
昔、孔子という偉い人が言いました。
『罪を憎んで、人を憎まず』
先生たちも決して、罪を犯した生徒が憎いわけではありません。
みなさんを守りたいという一心で、ただそれだけで、心の辛さを堪えて、罪を罰しているのです。
今の皆さんにはわからないかもしれません。
でも十年後、二十年後、きっとわかるときが来ると、校長先生は信じています。
ああ、あのとき先生はこんな気持ちだったのかと。
かわいい子供を叱るのはこんなに辛いことだったのかと。
だからどうか、皆さんも先生たちを嫌わないでください。
先生がたは本当に皆さんのことだけを考えて、毎日頑張っているのですから。

以上は、彼が退学したあとの全校集会で述べられた『校長先生のお話』だが、今回も要するにそれが言いたかったらしい。
『みなさん』を『黒子』に、『悪い生徒』を個人名に置き換えただけで、あとは全く同じ文脈の説教を聞きながら、黒子は思った。
結局責められたくないだけじゃないですか。
愛に、勇気に、罪とか、罰とか、ご立派な言葉でいくら目くらましをかけても、結論は「頑張ってるんだから責めないで」だ。
そもそも黒子が退学を希望したことと、校長がどんなつもりで生徒を叱ってきたかということに、なんの関連があるのか。
だれも二十年後の話なんて聞いてないのに──要望があって、回答を待っているのは、いま、現在の黒子なのに。

「てめーの信念貫くってのは、孤独なもんスよ」

そして今、黄瀬がぽつりと投げかけてきた言葉が黒子を混乱させる。自覚していなかった自分の中のなにかを言い当てられた気がして、動悸が激しくなる。
信念に、孤独。ただの単語だ。それがなんだと言うんだ。

「黒子っちはなんにも間違ってないっスよ。他人がどう思おうと──」

その一瞬の息つぎが、黒子には永遠に思えた。
引き伸ばされた時間はやけに苦しく、胸がぎしぎしと軋む。
この生まれて初めての感覚を、なんと呼べばいいのか。
青峰ならわかるだろうか、と考えた瞬間、黒子は目の前にいるよく見知ったふたりが遠くなるのを感じた。
長いまつ毛と尖った鼻すじと、煙草のフィルターを噛む口元。
鋭角な眉に一重まぶた、日に焼けた肌と対照的な白い歯。
見慣れた顔なのに、知らない、とも思う。ふたりの顔を造りあげるパーツがてんでバラバラの情報になって黒子の脳に送り込まれてくる。
あのまつ毛は黄瀬の一部だ。でもまつ毛単体を黄瀬と呼ぶことはできない。浅黒い肌や、まぶたも、それだけでは青峰とは言えない。
じゃあ彼らはどこにいる。
全部まぎれもない彼らのパーツなのに、それだけじゃだめなのはどうして。
あのつぶれたフィルターは黄瀬だろうか。
たぶんちがう。
その境界線はなんだろう──と考えて、気づく。
これは細かく砕いた白い錠剤。あるいは繰りかえされすぎて意味の剥がれ落ちた単語。校長の言う愛や勇気、そして罪と罰が、つまりそれだった。
もとはかけがえのない大切な意味を表すための言葉たちが、口当たりの良さと引き換えに価値を失ってしまう。
あのときあの職員室で、黄瀬は、青峰は、なんと言った?
愛と勇気の目くらましにかけられてぼんやり宙を見ていたボク。
貧乏ゆすりをしながら落ちつきなく肩をかきむしる青峰。
黄瀬はくちびるを焦がすほど短くなった煙草を携帯灰皿に押しつけて、そうだ、まずこう言った。

「あんたらさ。黒子っちが『悪い生徒』じゃねーって、本気で思ってんの」

担任と学年主任は怯んでいた。黄瀬が言外に匂わせた意味をきちんと嗅ぎとったからだ。
校長だけが顔色を変えなかったのは、経験と鈍感どちらのせいだっただろう。もしかしたら両方かもしれないが、青峰はこの絶妙なタイミングを逃さなかった。
無愛想なしかめっ面で、ポケットから取り出したしわくちゃの退学届をテーブルに投げて言った。

「『勘違い』で逃げられるうちが華かもな、センセイ」

ふたりともわかっていたのだろう。
校長という肩書きの人物が、実は的外れな愛情論で問題点をずらしがちな老人に過ぎないこと。それになにより、先生たちがずっと語りかけているのは黒子の姿を借りた『皆さん』で、決して黒子自身ではないということ。
だから黒いメラミン合板のカウンターに肘をつき、永遠と思えるほど長い、長い、本当は一瞬に違いない息つぎを終えた黄瀬が

「オレたちは黒子っちのこと、ちゃんとわかってるからね」

と言ったとき、黒子は身震いした。
ツンと鼻の奥が痛んで、潤みそうになる目を見開く。

やだな。恥ずかしい。
でも、うれしい。

青峰が気だるげなあくびをこぼして、それを見た黄瀬がちょっと嫌な顔をした。
そういえば今日は彼らがふたりだけで会話するところを見ていない。黒子を待っている間にまた喧嘩したのかもしれない。でもそんなことはもう、どうだってよかった。

「それ、ください」
「え、ただの煙草っスよ?」

知ってます、と頷いて、差し出されたパッケージから一本抜く。額を寄せて、黄瀬の火を移してもらって、浅く息を吸う。煙草を吸うのもはじめてだった。
忘れかけていたこめかみの鈍痛が蘇る。
重い煙に咳きこむ黒子を、青峰が訝しげに見やる。
その視線がくすぐったくて、黒子ははにかんだ笑みを浮かべた。

Hello world!

CEO赤司×セクサロイド黒子の変なパラレル

『Hi, Mr. I’m TK-TYPE11 and I……』
「違うよ。お前の名前は黒子。黒子テツヤだ。型番なんかで自分を呼ぶんじゃない」
『Yes,Mr. ワタシはKUROKO. ワタシはTransistor sexual android』
「黒子、キミは男の子だ」
『OK,Mr. ボクはオトコのコ。Mr. Blind dateしましょう。I’m really blind.メがミえません』
「ああ、すまない。視神経モニターの回路を切ったままだったね」
『Thank you, Mr. So, I’d be crazy if you ever got into my…… もしMrがボクのなかに』
「まあ待て。その前に『ミスター』はやめてくれるかい。オレの名前は赤司征十郎だ」
『OK, SEIJYURO……赤司クン。I love to love your love my love. アイしてます Love is the thing that I do.だからもうMrとヨびません』
「ああ、そうしてくれ」
アンドロイドの濡れた瞳に淡い光がともる。Na+H2O……単純な化学だ。
『My mack mode is consently on. おネガいです Would you mind tasting me』
「そう言われても、オレはね」
『Now its all run amok』
「……まいったな」
『I just wanna kiss you, suck you, tease you, ride you, feel you deep inside……』
「わかった、わかったから。その話はあとでゆっくり聞こう」
『OK,SEIJYURO. 赤司クン。I love you』
「……まったく、どうしたものか」
苦笑いをこぼしつつ覗き込んだアンドロイドのステータスモニターは、鮮やかなピンク色に輝いている。その中央にくっきりと浮かんだエラーメッセージは『fatal error: falls in love』
I love you, I love you, I love you, SEIJYURO, I love you……壊れた音声データのように同じ単語を繰り返すくちびるを、薄いラバーのマスクで覆う。それでも往生際わるく赤司を求める腕は、調整台に固定するための手錠で拘束する。
故障疑いのアンドロイドを制御する正当なマニュアルも、か細い彼相手ではまるで自分が非道を働いているように感じるのだから割に合わない。
「黒子、キミは理解しているか? メンテナンスが終われば、お前は元のオーナーのもとに帰らなくてはならないんだ。だから、オレとは今日でお別れだよ」
淡々と諭す赤司の口元を、アンドロイドはただじっと見つめている。製作者の偏執的なまでの情熱を感じる完璧な虹彩が、拒否の仕草でチカチカと点滅した。
これのどこが情緒欠落の欠陥品なのか。
赤司はアンドロイドの繋がれたベッドに腰を預けて思案する。
苦情受付窓口から回ってきたクレームの『感情回路の致命的な欠陥』という指摘は全くと言っていいほど当てはまらない。むしろ生半可な人間よりよほど感情豊かで──。
「ああ、困ったな。泣かないでくれ」
感情の四大原則の中で最もプログラミングが困難とされる『sorrow』さえも完璧に備わっている。
「そもそもの話だが……お前の稼働年数で初期言語設定からほぼアップデートされていない方が異常事態と言えるな」
ろくにコミュニケーションを取った形跡もない機体に「いつまでたっても懐かない」などとクレームをつけられても、基本設計を組み立てただけの自分に一体なにができるというのか。
赤司はアンドロイドの水色の髪を優しくなでてやる。
「お前のマスターは……お前をどんなふうに扱っていたんだ?」
聞くとは無しにそう呟く赤司に、アンドロイドはなにか言いたげなくぐもった声をあげた。訴えかける目の色があまりに苦しげで、被せていたマスクをずらしてやる。
『Make love to me』
またこれだ。
いいかげん聞き飽きてきたせりふに肩をすくめ、腕組みした手の片方をトントンと上下する。
修理保証の規約には、どこまでがメーカー側の権限として明記してあっただろうか。記憶にインプットしている文面を脳内で検索しながら、赤司は上目遣いに見あげてくるアンドロイドの全身をじっくりと観察した。
ステレオタイプの量産型とは趣を異にする、オートクチュールのフェイス。あくまで無表情かと思えば密かに感情的な瞳が、きゅっと引き結ばれたくちびると相まって謎めき、どちらもその奥に隠された意思を探ってみたくなる。
彼を造った職人はよほど研究熱心で腕のいいプロか──赤司は右腕のひじを立て、ゆるくにぎったこぶしをくちびるにあてた。
でなければ、ずいぶんオレと趣味嗜好が似通った人物だ。
「──黒子」
すこしかすれてしまった声に咳払いをし、先を続ける。
「キミの期待にこたえたいのは山々だけど、オレにも職務上の立場ってものがあってね」
『Come on……please』
殊勝な言葉面とは裏腹に、挑みかかってくるような語調に苦笑する。赤司はゆびの背でアンドロイドのほほに触れ、なめらかな人工皮膚の感触をたどった。
顧客の所有物に手をつけたなんてことが発覚すれば、おそらく、ただではすまない。良くて減給、下手すればCEO解任、もっと悪ければ株価暴落プラス、大型訴訟──。
つまり、いま彼の誘惑に屈するということは、好きこのんであぶない橋を渡るようなものだ。
「だから……」
息を吐いて、吸い、覚悟を決める。
「これからのことは、ふたりだけの秘密ってことでどうかな」
ぱっと目を輝かせて頷くアンドロイドに微笑を返しながら、赤司は社運をかけた重大なトラブルの予感を思考の外に追いやった。