Ωバース火黒(抄)5-2

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 ぽつぽつと集まり始めたストバス組と入れ替わりでフェンスを抜ける。遠い視界の隅で、青峰が足元のスポーツバッグを拾って肩にかけた。その目がどこを見ているか気になったが、火神が立ち止まれば黒子にも振り向く口実を与えてしまう。
 歩調を早めてコート脇の路地に入った火神は、連れの顔を何気なく見下ろし、どきりとした。
「おい、大丈夫か」
 一拍遅れて黒子が反応する。虚ろな仕草で顔を上げ、ふるっとまぶたを揺らした。青白い街路灯の下、瞳のふちが水面のようにきらめいて、もっと明るければ上気したほおの赤い色も見えたはずだ。
 濃く立ち上るバニラとシトラス、甘いミルクの香り。
 まじろぎもせず見つめる火神に気づいて、黒子は声をうわずらせた。
「すみません……あの、ちょっと……久しぶりだったので」
「久しぶり?」
 目的語のない単語をおうむ返しにする。すると黒子は何か言いかけて──口をつぐんだ。久しぶりに嗅いだ青峰の匂いで発情しそう、とはさすがに言えないらしい。
 だがそれが言えないのは、火神をただの安全牌とは見ていない証拠でもある。
 黒子をじっと見据えたまま、火神は言葉を選んだ。
「ていうかそんなんで帰って平気かよ。厳しいんだろ、お前んちの親」
「……どういう意味ですか」
「どういう意味ってお前、すげー反応してんじゃん。苦しそうだし。ほっといたらアレ、来ちまうんじゃねーの」
 息を飲んだ黒子のうなじには後れ毛が貼りついて、汗ばむほどの動揺が見て取れた。指先まで痺れるような胸の高鳴りを、黒子も感じているのだろうか。
「オレでよけりゃ、そうなる前になんとかしてやれっけど……どうする」
 以前聞いた、発情期が来れば当分外出禁止、という家の縛りをほのめかし、火神は選択を委ねた。
 追い詰められた黒子が目を泳がせる。視線が定まる前に手を差し出して、促すと、他に頼るものをなくした手がおずおずと上に乗った。すかさず握り締めて歩きだす。
「え、ど、どこに」
「オレんち」
 黒子の指がびくっと跳ねた。だが立ち止まる様子はなく、もう逃がさないと告げる必要もなさそうだった。


 黙りこくったままの黒子を先に玄関へ通す。部屋の明かりが灯るなり、靴を脱ぐ間も与えずに抱きすくめた。仔犬じみてぐったりと熱い体の、湿った首すじに顔をうずめ、絞り出すように尋ねる。
「どこまでしていい」
「……ッあ、噛まない、で」
 わかったと応える代わりに、火神は眼下の白いうなじを手のひらで覆った。指の隙間の肌を舐め、けぶる生え際から耳たぶまでを舌でたどる。汗の薄い塩気と、唇をくすぐる後れ毛、甘いバニラの香り。脳がぐずぐずに融けてしまいそうだった。
 それに心臓が痛い。掻きむしりたくなる胸の疼きに苛まれているのが自分だけとは思えなくて、抱きしめた腰元のシャツをたくし上げる。ひっ、と嗚咽を漏らしてへこんだ腹を撫で上げ、胸の真ん中に手を当てた。
 どく、どく、と早鐘を打つ鼓動を感じたとたん、疼きはもっとひどくなった。
「汗すげーな。暑い?」
「ン……ッ……っ」
 鳥肌の浮いた胸を撫でさすり、ぷつんと尖った乳首を探り当てる。めくれたシャツからのぞく脇腹がびくびくと跳ねるのを眺めながら、執拗に弄んだ。
 黒子は息を殺して刺激に耐えている。始めはそれでも良かったが、興奮が増すにつれて物足りなくなってきた。
 もっと自分から求めて欲しい。感じてる声が聞きたい。
 震えて背すじを反らした黒子のシャツに腕を深く差し入れ、鎖骨のくぼみからのど、尖ったあご先のラインに中指を這わせる。襟元から出した手で唇をなぞり、丸いほおを包んだ。
 巻き込んだ唇を噛み締めて、黒子は頑なに喘ぐまいとしている。それが歯がゆい火神は上体を倒して重ね、甘い香りの耳元に囁いた。
「黒子の声、好きだぜ。だから……」
 ここを開けてくれ、と唇の合わせに親指を立てる。まつ毛を伏せた黒子は観念したように奥歯を緩め、侵入を許した。
「はぁ……あ、ふ、うぁ」
 ぬるりと暖かい粘膜に指を二本入れて曲げる。舌を挟んで引き出し、待ち伏せていた唇で捕まえた。ちゅる、と音を立てて吸い取った黒子の舌は剥いたアロエみたいに滑らかで水々しい。だったら根っこから抜いて食っちまいたい、と腹に突き上げた荒い衝動が伝わったか、黒子が体を固くした。
「ッ……悪い」
 散々絡め取った挙句の謝罪は誠意に欠けて、黒子の潤んだ上目遣いに後ろめたさが募る。
 こんな風にするつもりじゃなかった。
 こんな、飢えた獣みたくがっつくんじゃなく──お前が誰より大切で、好きだって気持ちをありのままに伝える、そんなキスがしたかったのに。
「嫌なことしたら止めてくれ。加減がわかんねえ」
「そうじゃない」
 食い気味で否定した黒子が、気まずそうに目を逸らす。
「ちょっとだけびっくりして……こういうのは、初めてで」
 火神はつかの間黙り込み、その迂闊な告白を聞き流した。黒子にとって何が初めてで何がそうじゃないのか、今は想像したくない。
「……くろこ」
 吐息で名を呼びながら口の端をついばむ。二度目のキスをおとなしく受け入れる唇へ、今度はじわりと分け入った。


(つづく)

Ωバース火黒(抄)5-1

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「テツ。久しぶりだな」
 低く乾いた声が黒子を呼ぶ。砕けた響きの愛称と、突き放した口調のアンバランスが、二人のもつれた過去を嫌でも匂い立たせた。
 呆然と立ち尽くす黒子の足元を『青峰』の影が黒く塗り潰している。
 火神は弾かれたようにベンチから立ち上がった。ついさっき腕に抱いた肩を取り戻そうと伸ばした指先が空を切る。
 瞬きの差で動き出していた青峰が、先に黒子の腕を掴んだ。落ちたスポーツバッグに気を取られているのを引き寄せ、腰に手を回す。
 そして風が荒ぶような、掠れた笑い声をたてた。
「……なんだお前、オメガだったんじゃん」
「っ、やめ」
 黒子は声を詰まらせた。火神は「やめろ」と言葉を継いだ。頭ひとつ低いつむじ越しに「嫌がってんだろうが」と畳み掛けると、青峰の鋭角な眉がぴくりと跳ねる。
 それまで頑なに火神を避けていた視線が、ようやくこっちを見た。だが一瞥してすぐに逸れ、白けた調子で言う。
「そのアルファ、なに。こいつとヤッてんの」
 オレとしてたみてーなこと、と意味深な台詞が続き、黒子はぎゅっと身を縮めた。怒っているのか、恥ずかしいのか、耳の裏を真っ赤に染めて「違います」と答える。
「だろーな、だってお前匂いが変わってねーもん。つか前よりスゲーな……これ、オメガのフェロモンか」
 そう言うと、青峰は汗ばんだ首すじに顔を寄せた。鼻先で這い上るようにして肌を辿り、髪に顔を埋める。
 慣れた仕草で。
 当然のように。
 火神がずっとそうしたくて、できなかった、友情のオブラートに包んでやっと送ったキスを、いとも簡単に。
 振り払ってくれ、と祈った。ほんの一言、身振りだけでもいい。拒む意思を見せてくれたら、オレはそいつを殴ってお前を奪い返すことができる。
 焦げつく感情に耐えながら凝視する先で、黒子が小さく身じろぐ。着崩した他校の制服の腹に手を当て、すがりつくでもなく震えている。だが青峰は抱き寄せる腕を強め、ポケットから出した左手で黒子の肘に触れた。
 浅黒い指が、むき出しの白い腕を滑り降りていく。感触を確かめるようにゆっくりと下り、手首を掴んだ。それが日没の太陽を背負う青峰の、暗い影の中に黒子を縛りつける枷に見えて、火神は思わず一歩踏み出した。
「返せよ」
 無意識の台詞だったが、よほど癪に障ったらしい。青峰はいきなり無関心の仮面を剥ぎ取ると、真正面から火神を睨みつけた。
「うぜえ野郎だな。マジになってんじゃねーよ部外者が」
 ドスの効いた口調から一転して、せせら笑うように言う。
「そんなに欲しけりゃツバでもつけとけ、のろま」
 オレはそうしたぜとでも言いたげに、青峰は黒子のうなじへ視線を落とした。
 瞬間、火神の全身がぞわりと騒めいた。爆発的な怒りに任せて敵の胸ぐらを掴む。二人の間に腕を割り入れ、ひっぺがす勢いで黒子の肩を引いた。そして自分と同じ高さにある、青い炎の燻る目を睨み返す。
 ありったけの憎しみを込め「てめえ」と唸ったあと、火神は絶句した。体中の血が逆流して、目がチカチカと眩み、頭だけ妙に冴えているこの感覚を、的確に表す言葉が見つからない。それは火神が初めて感じる、本気の殺意かもしれなかった。
「……にして、ください」
 一触即発の空気を変えたのは、黒子の苦しそうな声だ。
 激昂したアルファ達の気迫に当てられたのだろう。膝から崩れ落ちそうにふらつくのを、肩と腰を抱く二本の腕が支えた。
 だが、黒子はどちらにも寄りかからなかった。固く拳を握り、コートサイドの芝を踏みしめて立っている。意表を突かれた様子の青峰を見上げるなり、緩んだネクタイのノットを掴んでぶつかりそうなくらい顔を寄せた。
「いい加減にしてください。ボクは物じゃない。勝手に取り合われるのは不快です」
 語尾を震わせながらもぴしゃりと言い切ると、少しだけ後ろを振り向く。
「それに彼は部外者なんかじゃありません。火神君はボクの、大切な──」
 一瞬の息継ぎのあと、黒子は「友人です」と続けた。
 のどにこみ上げる苦いものを、火神は無理やり飲み下した。胸に渦巻くどの言葉も、吐き出せば黒子を失望させてしまいそうで怖い。
 息詰まる沈黙を破って、黒子がぽつりと問いかける。
「ボクは青峰君の何ですか」
 また黙り込んで返事を待つが、青峰は何も答えない。
 黒子が悄然とうつむくのを見て、火神は我を取り戻した。青峰が決して敵わない相手じゃないと気づいたからだ。
 同じことをオレに聞けよ、と思う。
──そいつが怖気づいて言わない答えを、オレならはっきり伝えてやれる。そいつが手を離してもまだ動けずにいるお前の未練がましさはムカつくけど、それくらい一途ってことだろ。
 コートの四方からパッと光が差した。いつの間にか完全に日が落ちて、投光器のセンサーが働いたのだ。
 人が来そうだと思ったとたん、社会人ぽい私服の数名がフェンスの切れ目から入ってくる。中の一人に訝しげな視線を寄越され、黒子もようやく諦めがついたらしい。
「……では、また。次はインハイ予選で会いましょう」
 ボク達けっこう強いですよ、とうそぶいてみせる黒子が、本当はちっとも平気じゃないと分かっていたが、火神もあえて触れない。
 それより一刻も早くこの場を離れたかった。青峰がまだ火神を見くびっているうちに、黒子との距離を詰める必要がある。

 

(つづく)