John 8:32

反社会的&おクスリ注意な不良パロ1on1サンド。匿名で火神君もいる。

たとえば『目』と言う単語を際限なく繰りかえしてみると、言葉から意味が剥がれ落ち、単なる音の連なりになってしまう感覚に似ている。
この小さな錠剤も、細かく砕いてしまえば、ただの白い粒子に過ぎないのに。

きっかけはほんの親切心だった。
どうせ遅刻してくるだろう青峰を待つあいだ、黒子はちょっとした知り合いに会って『いいもの』を分けてもらった。
六つ折りの薄いアルミホイルに包まれたそれは、ひとりじゃもて余すほどの量で、黒子はだれかと初体験を共有したくなった。だから、戻った先の駅改札前に突っ立っていたふたりの、雁首揃えてひどい顔を見た瞬間、こう言った。

「やります? デキセドリン」

黄瀬は意外にも反対しなかった。アンフェタミン系は嫌いだと言っていたはずの彼が率先して公衆トイレを探しに行ったりするものだから、黒子もつい調子に乗って、奨められた量の倍を歯茎に挟んでしまった。
そのあとは……まあ、お祭り騒ぎというやつ。

というか、あれは本当におかしかった。笑い死ぬかと思った。だって青峰君ときたらいつの間に拾ったのか、大きなコンクリートの塊がくっついたカーネル・サンダースをずるずる連れ回してるんだもの。それで学校につくなり、時計台の真下に置いて「校長」なんて言うし。それも真顔で。

昼休み中の生徒たちもはじめは遠巻きに派手な不良たちと、その地味なツレの悪ふざけを眺めていたのだが、そのうちさざめくように笑いがひろがって、五分も経てば三人は馬鹿騒ぎの中心だった。
カーネルの上品な白髪はセミロングのウィッグに。トレードマークの黒縁メガネを奪われ、白地に赤と黒のラインのジャージを羽織り、制服のスカートをはいて、サマンサ&シュエットのトートバッグを引っ掛けられているのと反対の手に、だれかのサンドウィッチがお供えされたところで、騒ぎを聞きつけた指導課の教諭が現れた。
連行された職員室のソファで待ち受けていたのは、引きつり顔の担任と、学年主任と、本物の校長先生で。当然、退学届はすぐに受理された。
はじめてこの学校が楽しいと思ったのに。黒子は少しだけ後悔した。
と言ってもそれは澄みきった秋空に混じる寂しさに似て、本当の意味の後悔じゃない。一時の感傷を差し引けば、やはりここは黒子のいるべき場所ではないと思えた。

これでも努力はしたのだ。
どんなに小説の続きが気になっていても授業がはじまる前にはちゃんと本を置いて、前を見て、先生の質問に手を挙げた。
教室移動に遅れないように時間割表を持ち歩いて、班分けのときには自分からリーダーになったり、わざわざペア作業のある委員に立候補したり。
それでも毎日「ボクはここにいます」と言い続けなきゃいけないのにだんだん疲れてきて、ある日、午後の授業をまるまる図書室で本を読んで過ごしてみた。
そしたら──予想通り、なんの問題も起きなかった。
一応出席してみた帰りのホームルームで、担任の「きょうは久しぶりに全員出席ね」というせりふを聞いて、黒子は思った。
ボクはここにいたくない。

自然と休みがちになった黒子に、それでも声をかけてくるクラスメイトが、ひとりだけいた。
やたらと砕けた態度で『ガッコさぼってなにしてんだ』とか『いつも本読んでんだな』とか。それが理由でなんとか通いつづけていたようなものだ。
だけど、彼はいなくなった。教師を殴って退学になったらしい。彼を焚きつけたはずの、だれの名前も出さず、ひとりだけ処分を受けて、やめていった。
だから黒子は、ひとりくらい付き合ってあげてもいいんじゃないかと思って、どうせならハイな気分でやめてやろうと思って、実行した。

「べつに友達面するわけじゃないですけど」

一通り騒いで流れついた黄瀬の馴染みの店で、黒子はことの次第をこう締めくくった。

「連絡取るつもりもないですし。どうせつまんなかったですしね、学校」

青峰は肩をすくめた。
理解したのかしていないのか、たぶん『どうでもいい』が正解だろう。黙って聞いていた黄瀬は、背の高いスツールに尻の端を引っかけて、新しい煙草に火をつけた。

「で、つぎの学校は決まったんスか」

それかオレんちでニートやる? と妙に期待した声で提案され、苦笑いを返す。鈍い頭痛にこめかみを押さえながら、答えた。

「どうしましょうね。親には全寮制のミッションスクールを薦められてるんですが」

黄瀬がえーっと顔をしかめ、青峰がオエッと舌を出す。

「なにそれ、ほぼムショじゃん!」
「やめとけよ、ホモの牧師にケツ掘られんぞ」
「酷い偏見ですね。まあ、それは断ったのでもういいんです。聖書は読み応えがあって嫌いじゃないんですけど……キミたちと会えなくなるのは寂しいですし」

いつもの仲間、いつもの冗談に、はじめてのお酒と音楽。とても安らかな気分だった。
あの場所での黒子はまるで水のグラスに落とされた一滴の油で、そもそもグラスに油なんか入れるべきじゃなかったと、いまならわかる。

「真理を知らん、而して真理は汝らに自由を得さすべし」
「は?」
「あン?」
「聖ヨハネ。聖書の一節です。いまのボクにぴったりだと思いまして」

セント・ヨハネ。黄瀬のくちびるが単語の表面をなぞる。

「黒子っち、物知り。カッコいいっス」

美貌をうっとりと蕩かして黒子を見つめる黄瀬に、青峰が気色悪げな視線をよこす。そして不機嫌に言った。

「んなクソみてーな学校やめんのはいーけどよ、意味わかんね。そいつ勝手にセンセー殴ってクビになったんだろ。それでなんで、テツが義理立てすんの」

青峰らしい狭量な言い草に、黒子は目を細めた。薬のせいで瞳孔が開いて、テーブルのキャンドルがまぶしい、というのもあるけれど。

「やっぱり怒ってましたか」
「あ? べつに怒ってねーっつの」

怒ってるじゃないですか、とは突っ込まずに、黒子は首を傾げた。
確かに意味のないことをしたと自分でも思う。今日の校長の反応も似たようなもので、曰く。

「君の友達を思う気持ちは美しいがね。だが、友情の意味を少し履き違えてるなあ」

黒子は聞き返した。

「履き違え、ですか?」
「勘違いという意味よ」

と、ずれたことをいう担任。

「校長先生がおっしゃっているのはね」

──若い皆さんは、私たち教師の言うことを、大人にとって都合のいい押しつけだ、と感じることもあるでしょう。
特に友達が悪いことをして、罰を受けたとき。皆さんはこう思うかもしれない。本当はあいつはいいやつなんだ。あんないいやつに罰を与えた先生は、悪いやつだと。
確かに、その友達は本当はいい人間なのでしょう。皆さんがそう言うのだったら間違いない。では、罰した先生はやっぱり悪者ですか?
ちょっと待って、今度はこう考えてみてください。
どうして、先生は、皆さんに嫌われるのをわかっていて、それでも悪い生徒に罰を与えたのでしょうか?
…………。
それは、皆さんを愛しているからです。
嫌われたくないからルールを破った生徒を怒らないのと、嫌われたとしても悪事を叱るのと、どちらが勇気のいることか皆さんにはもうわかりますね?
昔、孔子という偉い人が言いました。
『罪を憎んで、人を憎まず』
先生たちも決して、罪を犯した生徒が憎いわけではありません。
みなさんを守りたいという一心で、ただそれだけで、心の辛さを堪えて、罪を罰しているのです。
今の皆さんにはわからないかもしれません。
でも十年後、二十年後、きっとわかるときが来ると、校長先生は信じています。
ああ、あのとき先生はこんな気持ちだったのかと。
かわいい子供を叱るのはこんなに辛いことだったのかと。
だからどうか、皆さんも先生たちを嫌わないでください。
先生がたは本当に皆さんのことだけを考えて、毎日頑張っているのですから。

以上は、彼が退学したあとの全校集会で述べられた『校長先生のお話』だが、今回も要するにそれが言いたかったらしい。
『みなさん』を『黒子』に、『悪い生徒』を個人名に置き換えただけで、あとは全く同じ文脈の説教を聞きながら、黒子は思った。
結局責められたくないだけじゃないですか。
愛に、勇気に、罪とか、罰とか、ご立派な言葉でいくら目くらましをかけても、結論は「頑張ってるんだから責めないで」だ。
そもそも黒子が退学を希望したことと、校長がどんなつもりで生徒を叱ってきたかということに、なんの関連があるのか。
だれも二十年後の話なんて聞いてないのに──要望があって、回答を待っているのは、いま、現在の黒子なのに。

「てめーの信念貫くってのは、孤独なもんスよ」

そして今、黄瀬がぽつりと投げかけてきた言葉が黒子を混乱させる。自覚していなかった自分の中のなにかを言い当てられた気がして、動悸が激しくなる。
信念に、孤独。ただの単語だ。それがなんだと言うんだ。

「黒子っちはなんにも間違ってないっスよ。他人がどう思おうと──」

その一瞬の息つぎが、黒子には永遠に思えた。
引き伸ばされた時間はやけに苦しく、胸がぎしぎしと軋む。
この生まれて初めての感覚を、なんと呼べばいいのか。
青峰ならわかるだろうか、と考えた瞬間、黒子は目の前にいるよく見知ったふたりが遠くなるのを感じた。
長いまつ毛と尖った鼻すじと、煙草のフィルターを噛む口元。
鋭角な眉に一重まぶた、日に焼けた肌と対照的な白い歯。
見慣れた顔なのに、知らない、とも思う。ふたりの顔を造りあげるパーツがてんでバラバラの情報になって黒子の脳に送り込まれてくる。
あのまつ毛は黄瀬の一部だ。でもまつ毛単体を黄瀬と呼ぶことはできない。浅黒い肌や、まぶたも、それだけでは青峰とは言えない。
じゃあ彼らはどこにいる。
全部まぎれもない彼らのパーツなのに、それだけじゃだめなのはどうして。
あのつぶれたフィルターは黄瀬だろうか。
たぶんちがう。
その境界線はなんだろう──と考えて、気づく。
これは細かく砕いた白い錠剤。あるいは繰りかえされすぎて意味の剥がれ落ちた単語。校長の言う愛や勇気、そして罪と罰が、つまりそれだった。
もとはかけがえのない大切な意味を表すための言葉たちが、口当たりの良さと引き換えに価値を失ってしまう。
あのときあの職員室で、黄瀬は、青峰は、なんと言った?
愛と勇気の目くらましにかけられてぼんやり宙を見ていたボク。
貧乏ゆすりをしながら落ちつきなく肩をかきむしる青峰。
黄瀬はくちびるを焦がすほど短くなった煙草を携帯灰皿に押しつけて、そうだ、まずこう言った。

「あんたらさ。黒子っちが『悪い生徒』じゃねーって、本気で思ってんの」

担任と学年主任は怯んでいた。黄瀬が言外に匂わせた意味をきちんと嗅ぎとったからだ。
校長だけが顔色を変えなかったのは、経験と鈍感どちらのせいだっただろう。もしかしたら両方かもしれないが、青峰はこの絶妙なタイミングを逃さなかった。
無愛想なしかめっ面で、ポケットから取り出したしわくちゃの退学届をテーブルに投げて言った。

「『勘違い』で逃げられるうちが華かもな、センセイ」

ふたりともわかっていたのだろう。
校長という肩書きの人物が、実は的外れな愛情論で問題点をずらしがちな老人に過ぎないこと。それになにより、先生たちがずっと語りかけているのは黒子の姿を借りた『皆さん』で、決して黒子自身ではないということ。
だから黒いメラミン合板のカウンターに肘をつき、永遠と思えるほど長い、長い、本当は一瞬に違いない息つぎを終えた黄瀬が

「オレたちは黒子っちのこと、ちゃんとわかってるからね」

と言ったとき、黒子は身震いした。
ツンと鼻の奥が痛んで、潤みそうになる目を見開く。

やだな。恥ずかしい。
でも、うれしい。

青峰が気だるげなあくびをこぼして、それを見た黄瀬がちょっと嫌な顔をした。
そういえば今日は彼らがふたりだけで会話するところを見ていない。黒子を待っている間にまた喧嘩したのかもしれない。でもそんなことはもう、どうだってよかった。

「それ、ください」
「え、ただの煙草っスよ?」

知ってます、と頷いて、差し出されたパッケージから一本抜く。額を寄せて、黄瀬の火を移してもらって、浅く息を吸う。煙草を吸うのもはじめてだった。
忘れかけていたこめかみの鈍痛が蘇る。
重い煙に咳きこむ黒子を、青峰が訝しげに見やる。
その視線がくすぐったくて、黒子ははにかんだ笑みを浮かべた。