執事赤司×御曹司黒子パラレル
水辺に生い茂るスイカズラが、ふたつに裂けた金銀の花弁を鈴なりにして新しい季節の来訪を告げる。
グミの荒い木幹にからみつくツルバラは一昨年、はじめて黄緑の蕾をつけた。原種のカニィナによく似た若葉。一枝手折って鼻先に近づければ、濃厚にただようリンゴめいた香りで野生化したロサ・エグランテリアとわかる。まもなく桃色の花を可憐に咲かせ、蜂や蝶の群れを呼ぶのだろう。
あたりを乳白色に覆っていた霧は、東の山端からのぞく朝日に追われて今やヨモギの柔毛に名残の露を光らせるばかりである。
赤司は重く水を含んだメリヤスの手袋を脱ぎ、上着の胸ポケットに押し込んだ。かわりに取り出したハンカチイフで燕尾の裾やズボンについた水滴を払う。糊がきいた三つ揃いはよく朝露をはじいた。しかし──サルスベリの滑らかな樹皮に手をつき、足裏を返す。
泥水に浸かった革の靴だけは、流石に磨くか取り換えるかせねばなるまい。
そもそも野放図な春の氾濫するこの一角へ、正装のまま立ち入るべきではなかったのだ。己の短慮に、気みじかなおれらしいと苦く笑みこぼす。ため息にならなかったのは、裏腹にある矜持のためか。
主と呼ぶ者のもと、手うたれれば馳せ参じ、言いつかる用をただ愚直にこなす日々も幾年月か。芯から機械仕掛けの下人に成り果てたかと思えば、こうして生来の気質がひょっこり顔をだす。とはいえ、お仕着せの靴を汚してほくそ笑む程度の矜持だから、おれの身の丈もたかが知れるというものだ。
今度こそ自嘲のかたちに歪むほほをザアと雫混じりの風が撫でていく。ハチドリの羽音を聞いた気がして、赤司は小川の縁に垂れるヤマフジの房へ目を向けた。
白々と萌えあがる花煙の影に三寸ほどの鳥と見えたのは、はたしてスズメガの成虫である。蜜の香りに誘われ山を下ったか、愛らしい翅を震わせて順ぐりに密集した花蕊へ細長い口で吸いつく。いかにも牧歌的な眼に愉しい風景だ。
しかしそうのん気に構えてもいられない。なにしろ、かの芋虫は名うての大食漢である。庭園のオールド・ローズを枯らしてあの好ましい、実直が取り柄の庭師を頸にしたくはないのだった。
先日取りつけたばかりの真新しい鉄柵をくぐり、赤司は炊屋の戸を叩いた。
「ねえきみ、ニコチン液はまだあったかな」
朝餉の準備に忙しく立ち回る女中たちのなか、たすきがけに洋酒の樽を抱えた下女がはあいと声を張り上げる。むっちりと盛りあがった胸元に汗を光らせ、「たしか納戸にふたびんほど」快活な東国訛りで答えた。
「でもあれは恐ろしい毒だからあたしらは触っちゃだめって虹村さんが」
「あったらいいんだ。あとで庭へ撒くよう伝えておいてくれ」
「ハテ、下肥に蛆でも湧きましたか」
割り込んだのは年増の女中頭だった。丸髷に結い上げた髪の手ぬぐいを外し袂にしまう。慇懃な物腰にすこしばかり刺を感じた。屋敷の一番の古株で、庭師の虹村に懸想しているという噂だが。
おれはどうもこういう情にうといところがあるな。鼻の頭を掻いてみせ、愛想ついでに事の顛末を説明する。
女はこともなげに切り捨てた。
「それはニコチンでは死にません。強い芋虫ですからね」
「では一匹ずつ捕えるしか策はないと」
想像するだに骨な作業を驚き混じりに訊ねれば、当然の面持ちで首肯する。
「虹村にはわたしから云っておきます。それより赤司さん、先刻より若様が呼んでおいでですよ」
後ろから挿す朝日はまだ弱い。懐中時計をとりだしてみても、寝坊の主人が起きる時刻には早かった。
「参ったな。手袋と靴が汚れている」
「替えならメードが用意しましょうに」
そのメードと顔を合わせたくないのだ。寝具一式を取り仕切るリネン室ならなおさらである。
なにしろ昨日の今日だ──赤司は気の重さに足取りを淀ませながら、絨毯引きの離れ廊下を進んだ。もっとも口さがない女連中のこと、貴人の寝室を預かる者だけが知り得る秘事もとうに公然の云々である。プレスしたての手袋と替えの靴を受け取った背に、男芸者が来たよまあ臆面もなくと密談にしては大きい陰口が刺さった。
「なにか怒ってますか」
使用人の渋面が気がかりでたまらない、といった風情で眼尻を赤く艶めかせる主は、一糸まとわぬ裸身である。西洋式の寝台に横たわり、華奢な金細工の煙管で煙草をのむ。
「若様、その格好ではお風邪を召します」
煙管を取り上げ雁口にくすぶる火種を枕元の鉢にコンと返せば、恨みがましくなじられた。
「けさも足腰立たなくしてくれたのは、きみでしょう──ああもう、からだがべとべとだ」
「では湯をもたせましょう」
呼び鈴を鳴らして合の間の女中にことづけると、まもなく熱い湯を張った桶とロオブ、大判のタオルが数枚、朝餉の台車とともに運びこまれた。
「あの娘、きみに見蕩れてましたね」
透かし彫りになった桐屏風のむこう、水音混じりにかけられた声に戸惑う。
「さっきの女中……ほほが赤かった」
「若様の裸を恥ずかしがったのではないですか」
「ちがいます。だってきみが礼を言ったら、赤くなって逃げた」
気味が悪くて逃げた、の間違いだろう。赤司は内心そうつぶやいて、白い木綿のクロスを敷いた丸テーブルに朝食の皿を並べた。
馬鈴薯とベーコンの冷製スウプ。人参と隠元を詰めたコオルド・ビイフの薄切りにコンソメのジェリ。苺に冷やした牛乳と砂糖の壺を添え、最後に温室で摘んできたモス・ローズをあしらう。
常ながら冷え冷えとした食卓である。頑として温かい食事を拒む嫡男に、子爵夫妻もどうにかこの奇妙な嗜好をあらためさせるべく苦心惨憺しているが、冷たいものでなければ餓え死ぬまで食べないのだから匙を投げるほかない。睦言に強情を揶揄する赤司に、あのとききみが忍んでくれたゆで卵と金平糖は美味かった、と殊勝な顔つきで語ったのはいつの夜であったか。
パイル織りのロオブを手に板間へむかうと、支那の職人にあつらえさせた籐編みの湯船から、ラタンの薫りがいっそう濃く立ちのぼる。やわらかな陽光をあび濡れ光る肩へロオブを着せかければ、練色の肌を朱に染めうつむくうなじに昨晩交わした情の名残が見え、赤司はいささかまぶしげな面持ちで眼を細めた。
「若様、お手を」
つとめて平静に暖炉の前へとうながす。素直に長椅子へうつぶせる、白樺の若木めいてしなやかな背。うす紫に透けるラベンダアの精油をたらし、清めた手のひらで丹念に塗りこめた。
「どうあってもきみは、閨のほかでぼくを呼び捨ててくれないんですね」
青白く憂鬱をたたえた貌がふり返る。おだやかな口ぶりだが、曖昧をゆるさぬ強さがあった。赤司はわずかに視線をそらし、慎重に答えた。
「朝になれば夢は醒めます」
「──冷血漢」
水面色の瞳を怒りにきらめかせ、彼は濡れたロオブの紐を乱雑にとき捨てた。面くらう赤司に目もくれず、奥の間からあざやかな緋色の振袖を羽織り着てテーブルにつく。手染めの京友禅も豪奢な古代縮緬である。
今度こそ赤司は瞠目した。襟口に染め抜かれた家紋を照査するまでもなく、高貴な出自が偲ばれる逸品だ。元はどこぞの姫の持ち物か。それでなくとも、一方ならぬ想いを託された進物には相違ない。
「いつも申しているでしょう」
乱れがちなこころを溜息で殺し、赤司は銀のスプゥンでとろりと艶やかな馬鈴薯のスウプを一匙すくった。白く垂れるしずくを零さぬようそろそろと主の口もとへ運ぶと、濃い薔薇色の舌が赤ん坊のようにしゃぶりついてくる。
「応えられぬ秋波はそもそも受け取らぬことです。あとで裏切るのは返って残酷ですから」
苦言を呈されたのがよほど厭だったのか。彼はむずむずと二、三度唇を蠢かしたきり、早くも食事に飽いた態で細工椅子の背にもたれかかった。そのままくたりと首をかしげ、焚き染められた沈香の甘苦く薫るたもとへと鼻をうずめる。体温で溶けた牛脂がテラテラと膜を張る唇はぴくりとも動かなかったが、どこか微笑んで見えるのは気のせいだろうか。
眺める赤司の胸に、ふと痒みに似た衝動が走る。焦りと落胆の一緒くたになった、打ちひしがれるような心持ちだ。
不貞腐れるとだんまりを決め込むのは常のこと。なにも憂慮はないはずだ。
しかし、赤司は敢えて衝動に身を任せた。
「聞いているのか、テツヤ」
がらりと口調を変えて詰問する。はっと貌をあげた主の瞳が、俄かに熱を帯びた。
主人と執事という位置づけは、すでに赤司の肌に馴染みきっている。今や安穏と例えても過言ではない。だが、それこそが二人を隔てる取去り難い薄壁となっているのも真実だ。
茫として感情の顕れ難い、半透明の擦りガラスで組まれた匣の中からぼんやりと世間を眺め観ているような主。その内で密かに息づく肉の部分に触れたい欲求に駆られたときだけ、赤司はその名を口にすることを己に許した。
また彼もそう呼ばれたときだけは、我が身を囲う匣の蓋をすこしだけ赤司に開いてくれるのだった。
「聞いています──赤司君」
今度こそ、はっきりと微笑む。
「嬉しい。あの頃に帰ったみたいです」
「僕たちは友だった」
「そう。とても愉しかった」
懐旧の情の色濃く滲む声。赤司の中に疼くものがないと言ったら嘘になるが、軽く口の端をもたげるに留めておいた。借財で門地を失った元華族風情がどれほど願おうと、過ぎ去った刻が遡行することなど有り得ないからだ。
それに加え、赤司は今の境遇を主ほどには憂いていない。なにせ突き詰めればただの同期生にすぎなかった昔と比べ、己の彼に及ぼす影響は増しゆく一方だ。
「その縮緬、テツヤには似合わないな」
赤司は造作なく言い放った。ことさら言葉を取り繕う必要もない竹馬の友が、服を見立てたとしたらこんな口ぶりだろうか。それにしても無遠慮に過ぎる物言いではあったが。
「それは女の着るものだろう。可笑しいよ」
念入りにもう一度「可笑しい」と繰り返す。主は恥じ入りきって青褪め、震える睫毛を伏せた。
「着替えます。赤司君も手伝って」
伸ばした手の指先まで血の気が失せている。傷心を隠そうともしないその態度は、返って彼の高貴な育ちを際立たせた。まるで思いあがりを糾弾されて断頭台に登る仏蘭西貴族のようだ、と赤司は思う。
「おいで、テツヤ」
一端立ち上がったあと、赤司は優雅な仕草で腰をかがめた。そして胸ポケットから木綿のチイフを抜き、主の赤く潤んだ目もとをやさしく拭ってやるのだった。